「そのころは、まだ10代。女なんて興味ない。三線一直線だよーー」
と、ゆってましたが…
失恋とゆーか、その女性との縁は、色々と紆余曲折しながら、ドラマチックなオチが待っている!んですけど、長くなりそうなので、あとは師匠に、直接きいてくださいねー(笑)。
さて、登川先生。
当時、すでに超大物だったわりには、弟子に優しい指導で、照屋師匠は感激したそうです。
が、しかし、
声の高さ(ちんだみ4とか5?)にこだわる登川教室の稽古は、照屋師匠のダンディ低音ボイスでは、どうしても苦しくて…
泣く泣く、登川教室通いを、断念することにしました。
このあとは現在まで、特定の師にはつかず、独学の日々です。
運転の仕事をしながら、友人たちと、琉球民謡グループを結成(←のグループ名は、もう忘れたらしい…)、演奏活動をはじめました。
伝説の民謡酒場、喜納昌吉の「ミカド」にも出演していたとのこと!
※ミカド
その昔、すんごい流行ったとゆう、コザの民謡クラブ。
流行った様子は、ここに書いてあります。
※喜納昌吉
「ハイサイおじさん」「花」のひと。
こうして照屋寛正は、25歳まで、一人前のミュージシャンとして、コザで活躍を続けるのでした。
つづく