今日は

67年前の今日8月6日広島は日本の都市の名前から世界のヒロシマとなった。
当日は朝から雲一つなく、真っ青な空だったそうです。人々は戦争中であったがいつもとかわらない時間になるはずだったそうです。一機のB29によってその普段とかわらない生活が地獄になった。8時15分上空やく600メートル現原爆ドームから数メートルの病院の上で原爆が破裂。爆心にいた人々は・・想像して下さい!人々は(あ!) と言う事なく死に。おお火傷をおい、水を求め川へ郊外へ当日学徒、学生(今の中学生から高校生)の被害も多く。建物疎開作業(被害を少なくするためにひおけ地帯を作るために、広島の場合、今の平和大通りがその後)の作業中に原爆にあったのもが多くいたそうです。その場で生き絶えた者。自力で家族の元に戻ったもの。救助され救護所に運ばれた者。水を求め、川に入ってそのまま流されたもの、ある学徒の話し。「突然の光、背中が熱くなり気を失った、気がづくと回りから(お母ちゃん〜助けて〜水をちょうだい〜)と友達の声が聞こえた。私はそのまま友を置いて逃げて行った」と僕が直接知り合いのおじいさ
んから聞いた話し。おじいさんのお兄様の話しを聞いた。おじいさん本人は広島郊外に疎開していたが光と爆風。そしてあのきのこ雲を見ていたそうです。お兄様は何とか家に帰り着いたそうですが背中一面火傷をおい終戦を向かえずに亡くなったそうです。。おじいさん自身も原爆の事を語る事がなかったそうですが、僕に初めて話しをしてくれました。NHKの番組で作家原たみき一族の事をやっていた原たみきの甥っ子がある学校の生き残りだどしり家族方が亡くなっ生徒職員の名前を刻んだひの前で語りあっている場面があった。そこに僕の知り合いのおじいさんのお兄様の名前を見つけた。おじいさんに確認をしてもらっら間違いないとおばさんから聞いた。その夜に電話をもらった「自分自身はもう長くない命だけど。(ありがとう)ねぇうれしいかったよ、兄さんの名前。よく見つけてくれて」とそれから翌年おじいさんはガンのために亡くなった。おじいさんが命をかけた最後の話しは語りずかないといけないと感じ。今もお兄様の被爆の様子の追跡調査は継続ちゅである
ある被爆者の言葉「ここで聞いた事、知った事見た事を(知った、知った)てだけではいけない。じゃどうする?それを伝える事なんだよ〜君達のまたその後の世代に。伝えないといけないだよ。宿題だよ」と
戦後、いわれのない差別で二重の悲劇もあった。
核の恐ろしさを忘れては行けない。